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庭野仁司は、中学、高校と美術部に所属していました。小さい頃から絵を描くのが大好きで、クレヨンと画用紙さえあれば何時間でも描いていられました。庭野仁司の両親はそんな庭野に寛大な気持ちで接していて、一度、両親が出かけている間に、子供部屋のふすまに大きなライオンの絵を描いてしまった時でさえ、両手を叩いて喜んでくれるような両親でした。

高校三年の夏、母親が事故で亡くなり、父親との二人暮らしになった庭野仁司は、部活を早目に引退し、アルバイトを行うようになりました。庭野が始めたアルバイトは、絵画教室のアシスタントで、幼稚園くらいの子供から、大学受験に来ている同じ年の学生までと幅広く教えている教室だったので、大変でしたがやりがいがありました。

平日、学校が終ると一目散に帰宅し、夕飯を作りました。それから自転車で約20分のところにある絵画教室でアルバイトをする毎日で、大変でしたが不思議と不満は無く忙しい日々を過ごしていました。

ある日、絵画教室の先生の知り合いが個展を開くというので見に行ったところ、衝撃を受けました。そこにはモノクロで、綺麗に咲き誇っているサクラの写真ばかりが並んでいました。自分の目では見られない景色に魅了されました。その晩、バイト先の絵画教室に戻り、いかに素晴らしかったかを伝えたところ、その写真家がアシスタントを募集していることを知りました。アシスタントに応募するときに、カメラを持っていない状態でしたが、熱意はだれにも負けないつもりでした。しかし、結果は不合格でした。けれども、少しカメラの勉強をしてからもう一度来てくださいと、写真家から一眼レフを譲り受けました。

その後、大学に入った庭野仁司は写真部に入部し、カメラの知識や腕をメキメキ上げていきました。大学の写真コンクールでも上位入賞を果たし、庭野仁司個人にちらほら依頼も入り始めています。庭野仁司の写真が世に認知されたのは、2011年にボランティアとして参加した東日本大震災の被災地の花を撮影した写真でした。庭野の写真は思い入れをなるべく入れずに、事実を淡々とフレームに収め続けて行きます。その無機質な写真が、逆に見る者に様々な影響を与える作品となりました。現在は大学を卒業し、東北に住居を移して被災地の写真を撮影しながら、東北の復興の力になっています。写真は見る人に様々な影響を与えます。その為、被災地の復興には、庭野のような時代に合った作品を生み出す写真家が必要なのかも知れません。

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